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(落日) |
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![]() 月島蛍 |
(病人がこんなに退屈だなんて知らなかった。検査結果を待たされる間、親の勧めで眼鏡の度数を調整したりなど、悪足掻きと解していても何もしないより幾らかマシ。高が部活と括っていた癖、それがその侭抜け落ちた日常は依然として色彩が掛けたような退屈さだった。幾分か明瞭さを取り戻した視界も、けれど安定には至らず壊れたカメラのように輪郭は浮かび上がったり暈けたりと日常生活を送るにはそこそこのストレスだから、自宅待機命令は思っているよりきっと的を得ているのだろう。バレーがしたい、なんて到底自身の感情と折り合いの悪い特殊な欲求はそれでも目を逸らせない程度には胸裡に焦げ着いていて、自発的な前向きと言うよりは常に傍らにあった日課のようなものだから、突然欠くと酷く居心地が悪いってだけだ。八方塞がりの苛立ちを誤魔化す為だけに、律儀に休み期間中の教科書を開く。彼女が届けてくれたプリント類だって暇潰しには丁度良くて、数学ばかりを手繰る指先はきっと意識よりも素直なことだった。日毎彩度が零れ落ち行く双眸は、反して鮮やかな色をすくすくと湛えてゆく。自然のものとは程遠い青光りが虹彩を染め上げる様は奇態に他ならず、漠然とした畏怖が其の侭反映されるかの如く視界には文字通り暗雲が立ち込めて久しい。然しながら、諦観は無かった。或いは余りにも日常と掛け離れすぎていて、実感が伴わないのも要因だったやも知れない。検査結果さえ判明すれば、この不気味な双眸も晴れ、直ぐ側にある日常を、彼女の居る日々を、手を伸ばせばそこにあるものだと。それがそうあるべきものとして思い込んでいた。悪癖の盲信が虚空であるなど、夢想の内では気付くまい。男の世界の常識である以上は殊更。 コイツはよもや暇なのかと悪態を吐きたくもなるのは、過保護甚だしく甲斐甲斐しい兄の姿を映じる度だ。検査結果の期日として定められた5日目。元より付き添いに名乗りを上げた男の好意を二度三度は断ったけれど、日に日に低下の一途を辿る視力を前に背に腹は変えられぬと渋々受け入れたのが昨夜の話。最早あまり意味のない眼鏡をそれでも忘れはしないのは、決まった枠が乱れる事を厭う潔癖がひとつと、己自身でも気味の悪い眸の色を少しでも隠さんとする意図だ。幸い不安定な視力は今日に限って調子が良く、徒行に苦労し得ぬ視界を以てはやっぱ一人で良かったかも、と可愛げのない所感をひとつ。刺々しい弟の態度に慣れ切った当の相手は、そんな事言うなよなんて笑ってるのだから呑気な話。痛切なまでの心配に気付かぬ愚鈍でも無いから、応酬まるごと脇に捨て置いては希望への片道を、歩んでいるさなかでのことだった。)――…っ、(曲がり角、横断歩道。元より気持ち距離を取らんとする思春期の緩慢な足取りで、兄と信号で分かたれた所までは意に介すほどのことじゃない。道の向こう側、聞き覚えのある声色が耳朶を揺る瞬間、目の奥で針の筵が身動ぐような痛みが走って、咄嗟に呼吸が止まる。みるみる光源を失ってゆく世界に沈む感覚を覚える砌、捉えたのはもうひとつの声。――盲目が罪悪であると、遠い昔に知り得ていた筈なのに。紡がれる恋の調べは、世界から輪郭を奪うに十分のものだった。信号が青に変わっていると、鳴り止んだ車の音で気が付いた。早くこの場を立ち去らなければ。小走りで爪先を遠ざければ、甘酸っぱい一幕など直ぐ他人事と変わる。覚束ない徒行に気付いた兄が駆け寄り寄り添う。「……蛍?」)……っ大丈夫、だから……(青い顔をして宣ったとて効力など知れよう。直ぐにタクシーへと押し込まれて、そこから主治医を前にするまでの記憶は曖昧だ。ただじっと痛みに耐えている間、彼女のことばかりが脳裏に渦巻いていたものだから。まるで御伽噺の作り話と言われた方が余程納得に足る病魔の内情を告げられたとき、妙に合点がいったものだ。)………玉眼症。(無意味と解って、茫然と口にする。知らない単語。馴染みのない病気。初恋。長らく胸の内側で飼い慣らしていた恋心が、この病気の理由だという。そんな馬鹿な話があるかと、笑い飛ばせたら良かった。呼気を介して力が抜ける心地を覚えたのは、いつかの日の衝撃に程近い感覚。足元から己の芯に据える常識と名のつくすべてが、等しく崩れ落ちてゆくような。己を気遣うような言葉の数々にも反応は薄く、常として据えるドライな性状は此処に来て落胆をも多い隠せるのだから冷めた性分は儲け物。ただ、光を多く落としすぎた視界では、進むべき道もわからなくなっていた。 彼女へ今日の話をしたことも、些細な約束も、減らず口の日常も。余りに明け透けな彼女の慕情に今以て疑う余地も無いからこそ、思い返せば返すほどに心音と連動して眼球の裏側が強張った。今はまだ人のかたちを保っているこの両眼が、人ならざるものへと変貌するのだと言う。)――…… んで、(なんで僕なんだ。 諦めた振りが得意になって、何でも斜めから見下ろして、冷めたような言葉を選んでいたって、結局は。彼女も、バレーも、こんなにも支柱となっていた事に、色のないベッドの上で漸く自覚する。今更だ。今更だった。恋か、夢か。作り話より陳腐な選択肢の答えは、握り締めた拳の中には見当たらないまま。) |
Published:2019/07/05 (Fri) 23:25 [ 10 ] |
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