涙雨
--コペルニクスの夜べ--

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(或るうさぎの独白)
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高梨藍
うん? あ~!ひさしぶりだね。どしたの?バスケ部の用事?(「高梨先輩。」廊下にあるロッカーの前にしゃがみこんで教科書類を片付けていた少女に、頭上から声が降ってくる。見上げれば、そこには一学年下の青年。委員会活動で一緒になって以来、ラインを交換し、昇降口で会えば共に帰ることもある、異性の後輩としては比較的親しい部類の友人であった。だれか呼ぼっか。立ち上がり教室を覗き込もうとした少女の腕を、長身の青年が掴んで引き止める。先輩に、話があって来たんです。)……わたし?(いつになく真剣な、切羽詰まった表情に面食らう。なにか相談ごとだろうか。飯行きませんかという口ぶりからも、深刻な内容かもしれない。力になりたい気持ちはやまやまなのだが、)ちょっとごはんする時間はなくて……ゴメン。……あ、じゃあさ。スタバ買って、二丁目の公園行かない?(両手を合わせて懺悔のポーズ。今日ばっかりは、無理だった。あの日から変わらず欠席を続けている想い人の瞳に不調をもたらすなにか、その正体が判明するはずの日だからだ。日程と病院を教えてもらい、必ず行くと伝えてある。けれど悩める後輩を放置するのも忍びなく、病院近くの公園という代替案を提示した。よくよく考えれば彼や彼の両親と並んで検査結果を聞くわけでもなし、少し時間をずらすべきだと思い至ったのも理由のひとつだった。)――……と、ごめんね。そろそろ行かなくちゃ。続き、また明日聞かせて。(ブランコに並んで座り、他愛のない会話をしばらく楽しんだ頃。結局悩みの核心に迫れないまま新作の檸檬色を飲み干した少女は、そう言って立ち上がると鞄を持ち直した。通りに向かって歩き出す。公園の出口では、今を盛りとさまざまな薔薇が咲き誇っていた。「この花びら、ドレスみたいでかわいい。これも薔薇かなあ。」振り向いた少女の瞳を、青年のまっすぐな黒曜石が射抜く。刹那、甘いかおりの風がひとすじ吹き抜けて――「俺、好きなんです。藍さんのことが。」くっきりと迷いのない声が、響いた。)…………、えっ?(予想だにしない愛の告白。少女が言葉の意味を理解するまでの間に青年は彼女を追い抜いて、あっという間に雑踏の中へ消えた。「すぐじゃなくていいです。夏休み入るまでに、返事ください。」そんな言葉を残して。胸元でぎゅ、と手を握りしめ、少女はしばらくのあいだ動けなかった。即答できなかったのはひとえに彼女の反射神経の鈍さゆえだ。何年考えたって、答えは同じなのに。)

(チリン。自転車のベルで我に返ったのはその数分後。そうだ、お見舞いに。思いがけない告白にざわざわと落ち着かない心のまま、少女は足早に病院に向かって歩き始めた。ナースステーションで尋ねれば、彼が検査入院となったことを知る。また検査?今日で結果が出るはずなのに――怪訝な表情を浮かべ一度はそこを離れかけたけれど、何歩も行かぬうちに踵を返した。間違えた。入院病棟は逆方向か。)……?(「ねえ、今の、松川くんって」「そう、玉眼症の」。再び近付くナースステーション、半開きの扉から漏れ聞こえてくる看護師たちの声が彼に言及していると気付けば、咄嗟に壁際に張りついた。斯くして盗み聞いた白衣の天使たちの会話は、おとぎばなしみたいに現実味がないもので。瞳が宝石に。やがて失明。恋か瞳か、どちらか捨てなければ。なに、それ。それじゃあ、まっつんのあの不調は。心臓がばくばくと暴れ回り、思わずその場にしゃがみこむ。少女は知った。とうとう知ってしまった。彼が侵されたのは、玉眼症。初恋を喰らい育ちゆく―――あまりにも美しく、残酷な病。)………じゃあ、おだいじに!またプリントとか、渡しに行くね。……失礼します。(対面した彼と、なにを話したのかよく覚えていない。けれどあからさまに動揺している少女の様子から、既になんらかの情報を得ていることを彼が察してしまった可能性は否定できない。ふたりきりでなかったこともあり、クラスメイトとしての一般的な距離を保ったまま、少女は短い面会を終え病室を後にした。ふらふらと待合室の椅子に腰を下ろすと、祈るように組んだ両手で口元を覆う。彼の瞳を蝕むのは、彼の恋心。そして、その恋心の在り処は―――。“応援に行くから。”やわらかく細められたまなじり。“いい子。”あやすように髪を梳く大きな手。そして、“高梨。”あまやかにわたしの名前を呼ぶ声。昨日まで支えとしていた記憶たちが、いくら振り払っても少女の鼻先に現実を突き付けようとする。確証はない。けれど、わたしじゃないと断じるのは、あまりにも罪深い。それだけの時間を、過ごしてきた。ふたりで。)………どうしたらいいの………?(ふるえる声は、迷子の子どもみたいに頼りない。考えたくなかった。目を逸らしていたかった。あの夕暮れに、還りたかった。けれどもう、少女は知っている。あのおだやかな日々は、二度と帰ってこないことを。知ってしまった。あのやわらかな双眸に、大好きな人の世界に、ひかりを取り戻す方法があることを。そしてその魔法を使えるのは、恐らくほかの誰でもない、自分ただひとりであることを。でも、だけど、)………、なんで、(一秒ごとに決心が揺らぐ。踏ん切りがつかない。なんで、まっつんなの。かぼそい声が白の空間に溶ける。わたしはこの恋を知って、あんなにたくさんの彩を、音を、手に入れたのに。どうして彼はその恋に、彩を、未来を、奪われなくてはならないの。どうしてどちらかひとつなの。どうしても、選ばなくてはいけないの。彼から瞳を奪うのは嫌。彼からバレーを奪うのも嫌。これからもあのコートの中で、ずっとずっと笑っていてほしい。未来に分岐点が残されていたことは、まだ手遅れでなかったことは、幸運だったと素直にそう思える。それも必要なのが高額な薬でも難しい手術でもなく、少女自身だというのだから簡単なくらいだ。彼の前からわたしが去れば、彼の世界はきっと彩を取り戻す。彼のことを思うなら、どちらが正解かなんて分かりきっている。――でも。ああほら、また揺れている。でもわたしだって、)………わたしだって、………いっしょにいたいよ………(だめ、決められない。ごめんなさい。きみのこころも手放したくない。わたしが、きみを幸せにしたい。きみの気持ちを嬉しいと、思ってしまうこころが止められない。これはエゴだ。こんなに簡単な選択なのに、迷わず選べないわたしはほんとうにばかだ。ぎゅ、と瞳をかたく閉じる。噛みしめた唇は、ほのかに鉄の味がした。)

(最終的な決断を求められるのは、罹患者である青年なのかもしれない。けれどずるくて、弱くて、臆病な少女の手にもまた、未来を決めるナイフは握られている。救いたいならその胸を突け。愛する人のためにこころを差し出せ。脳裏に声が木霊する。逃げるように耳を塞いだ。)
Published:2019/07/04 (Thu) 10:46 [ 3 ]