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(月明かりのみぞ知る。) |
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![]() 松川一静 |
(五感の何れかが欠けると、他の器官がそれを補うべく発達するとは噂に聞いていた。男の場合、それは耳と鼻だったらしい。いよいよ診断結果が出ると言われたその日。病院に向かうべく家を出る際、サングラスは人目を引きすぎるとの判断にて代替品として黒のカラーコンタクトを入れることにした。念には念をとキャップを深く被り、俯きがちに外に出る。ふと、鼻先を掠めるは湿った空気。ついと顎を上げたなら、閉ざされつつある視界でも天候を察する事は出来ようか。)……雨降りそ。(じとりと重たい空気はまさに梅雨といったところ。帰りに降らなきゃいいけどと胸中でぼやき、ゆっくりと玄関の扉を閉めた。車を回してくれた母親に一言礼を告げ、後部座席に乗り込んではしばし微かな振動を味わう。さして遠くない距離であるからして、到着まで然程時間はかからないだろう。――治るのだろうか。すり、と目元をなぞれば柄にもなく弱気な事ばかり考えてしまって、医者と対面するのが実はほんの少し怖かった。妙な緊張に凝り固まった心臓を溶かすべく窓を開けては、頬を撫でる風で気を紛らわせた。そうしているうちにふと風が止まる。赤信号なのだろうと予想しては窓枠に肘を乗せよく見えもしない外へ視線を投げる。ふと漂って来た甘い香りは薔薇だろうか。そういえば病院近くの公園は薔薇が綺麗に咲くのだと誰かに聞いたっけ。そんなことを思い出す中、いつも以上に音を拾う耳殻が少女の声を拾ったような気がした。目を凝らしても何も見えやしない、けれど「これも薔薇かなあ。」今度は確りと聞こえた。誰かと一緒なのかと首を捻った所で、知らぬ男の声がした。飾り気無く、だからこそ真っ直ぐな言葉。)――………。(しかし、知り得たのはそこまで。発進した車を止める訳にも行かず、ざわつく心を落ち着かせるべく膝の上で拳を握った。確かに聞こえた、彼女への告白。何と答えたのだろう。相手は誰で、彼女はどんな顔で。朧な視野では何一つ分からず、それが悔しくて仕方ない。思わず零れ出そうになった悪態を飲み込んで、もう一度窓の外へ顔を向けるけれども、声どころか、花の香りすらとうに掻き消えて跡形も無かった。)――玉眼症。(時の流れとは残酷なくらいにやさしい。制限された視界にも、癒える事の無い疼痛にも、時間が経てば経つ程に慣れ始めていた。けれどそれも今日限り。診断結果による適切な治療が施され、再び元の視界にてボールを、少女を、見据えることが出来るはずだと信じたかった。叶うならば先程見かけた光景について彼女に確かめてみたりもして。少女へ、仲間たちへ、心配掛けたことを謝罪し、変わらぬ日常に戻ろうだなんて考えは鮮やかに裏切られる。治療法の無い稀有な病、心を二つに割りその一方を差し出さねば決着をつける事は出来ないと言うその病名は、何と幻想的で現実味に欠けていることか。)……本当に、一つしか選べないんですか。(「残念ながら」重たい呼気を纏ったそれに続けられたのは、「結末は君が決める未来だ。」との一言。とりあえず今夜一晩は検査入院、後は経過観察との結びにて診察室を後にする。手続きをしてくると言う親に頷きを返し、看護師の案内を受け病室へ足を運ぶ。硬い声だった。真新しいシーツの敷かれたベッドに腰掛けては深い溜息を零す。それから、手荷物に忍ばせた手鏡を取り出し覗き込めば瑞々しく光る淡緑が静かに此方を見つめていた。)………どうして、こうなったかな。(――彼女を想うこと。それはとてもしあわせだった。彼女に名を呼ばれるたびに胸の内がじんわりと温まって、笑みを向けられる度に心臓が跳ねて、気付けばいつも、彼女の姿を探してしまって。家族とも、友達とも違う。その感情が恋だと気付いたのは何時だったろう。目を閉じて、あやふやな視野を閉ざす。それでも痛みは消えないし、瞼を持ち上げると当然恐ろしい程に美しいその色が輝きを放っていた。初めての恋が孕む甘い蜜をありったけ閉じ込めたような瑞々しいそれは碌に見えやしない視界の中でも光続け、唯々遣る瀬無さを煽るのだ。歪む男の相貌を映すばかりの鏡を、用済みだと鞄の中に半ば叩きつける形で放り込み、ぐしゃぐしゃと髪を混ぜる。)俺は唯………、………好きなだけなのに。(彼女のことが好きだ。世界で一番、特別に。けれど同時に、今の生活だってかけがえのないものでもある。三年間を費やした、上を目指せるチームに仕上がったと各々自負している。最後の夏はこれから、なのに。)…どうしろっつーんだよ…。(目が見えなくなれば、コートに立つことは叶わない。かといって彼女への想いを破り捨てる事などそう容易く出来る事でも無い。震える両手を眼に押し当てて、項垂れる。戻ってきた人の気配を背中に感じ、緩慢な動作で顔を上げる。「クラスの子、高梨さんが来てくれてるわよ」との一言で、何とか平常心を奮い立たせたものの)…ありがと。わざわざごめんね、じゃあまた。(――目敏い筈の彼女からコンタクトレンズに関する言及はなく、どころか視線が交わる事も殆ど無かった。余所余所しい態度に思うところはあったけれど、結局当たり障りのない会話をほんの少し交わしておしまい。あまり長く引き留めては此方も胸中で渦を巻く激情を吐露してしまいそうだったから。小さな背中がドアの向こうに消えるまで微笑は絶やさず、少しでも「松川一静」らしくあろうと努めるのだ。)………。(掛ける言葉に悩んでいる母の様子を察し、大丈夫だからと笑みを浮かべながら家に戻るよう伝えた。心配いらない、一日だけの事だからと。そうして、自分以外誰もいなくなって静まった病室で、どのくらい経ったろう。ぴこん、とメッセージが届いたことを知らせるようにスマホの画面が強く光り、それで漸く陽が落ちて室内も大分暗くなっていた事に気付くのだ。)…………。(カーテンを閉じ、部屋の灯りを点けて内容を確認したならば、指先に力が籠る。「調子どう?」「まじで大丈夫か?」送り主たるチームメイトの顔を、声を、脳裏に描いては込み上げる熱が視界を滲ませた。服の袖を目元に当て乍ら、嗚咽を噛み殺す。シューズの鳴き声。スパイクの咆哮。観客席から降ってくる声援。当たり前だったそれらが、鼓膜の奥で反響する。バレーを、諦めたくない。けれど同時に、あめ色の瞳を甘やかに蕩かして笑う少女の手も、離したくは無かった。例え自分よりも彼女を幸せに出来る人がいるのだとしても。『 ―――待ってるね!』あの日絡めた小指の先は今も尚熱い。)……なんで。(理不尽だと、思わず世界を呪った。宝玉の美しさなどいらなかった。夢を追い掴んだ先で少女と笑い合えたなら、それだけで良かったのに。すすり泣く声は押し殺され誰にも見られることなく、届きもしない。唯一見ていたものがあるとするなら、それはきっとカーテンの隙間から覗く月だけ。) |
Published:2019/07/05 (Fri) 21:26 [ 7 ] |
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