涙雨
--コペルニクスの夜べ--

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(さようなら、世界。)
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木兎光太郎
(もしも己よりも先に瞳だけが寿命が来てこの世の光を二度と見られず、蘇らない視力の代わりに今後の人生を得るのだとしたら。)死にたい、なんて思うのかなぁ。俺は。(客観的な響きをしたつぶやきは、ひとり己の手のひらを何となく眺めながら。見えないことの不自由さを頓に感じたここ数日、緩やかな死が這い寄って男の首を締め上げるのかと思われたが、どうしたって前を向く情操が未来の可能性がある限り諦めないと決めているからどうにも他人事のようだった。「大丈夫」と告げるのは根拠は無いが本心で、不安を掻き消すための強がりではない。追いつめられるとむしろ凪いでゆく精神だが、最早己ではどうにもしようが無い領域になってしまえば、あとは宣告を待つのみになる。呆気ない降伏はあまりに長けた戦況を見図る野生児じみた感性故か。勿論、抗いたい気持ちは引っかかりを探して今か今かと爪を研いでもいたけれど。ともあれ視界から入ってくる情報の多いことを知った一週間近く。――静かに留まった自家用車は身内のちょっとした寄り道のために道の端に寄せられた。ちょっと待ってて、と言伝に逆らう理由もなく、ほぉいと了承の意を示して軽く手を振った。開け放った窓に凭れ掛かるようにして身を乗り出す。生ぬるい自然風がへたったままの銀の髪をなでていく。整髪料のつけていないまっさらな髪は何に抗うこともなくそよそよと揺れて、そして遠くに聞こえた話し声に反応した頭と一緒に空に散らばる。感嘆符を浮かべた男には、聞き覚えのある声が聞こえていた。ここは学校の近くか、それとも通学路か。色の境目、ぼやけた輪郭を捉えるのみに近い目にも見覚えがあると感じさせたが、確証は無くてきょろきょろと周りを見渡した。声の主が、彼女が、このあたりにいるのではないかと期待したからだ。けれど、やがて身内が帰ってくる数分間のうちに男はシートの上で見るも無残に撃沈することになる。彼女の姿を真に見つけることはできず、かすかに聞こえた鹿目舞花を口説くような台詞に大いに心が揺さぶられて、邪魔することも蹴散らすこともできない現況にようやく思い至ったのだ。ぼこんとドアを殴りつける。乱暴しないで、と叱られながらああそれどころじゃない。あっちもこっちも。別に突如現れた恋敵なんて敵であって敵ではない。それでも焦燥感はまぎれもなく胸裏に立ち込めて、曰く喉が詰まるような思いだった。崩壊の兆しはすぐそこに迫ってきていた。)わー、静か。(病院は慣れない。ついついささやき声で話さないといけないような気がすると述べれば、アンタはそのくらいがちょうどいいわよと嗜められる。その反動でか、名前を呼ばれれば尋常ならざる声が出て周囲の失笑とお静かにの念押しが母の頭を抱えさせた。こういうのが日常なのだ。コミカルな一幕に、色を添える淡い恋の存在。きっとこれで、また元の生活に戻れるのだ。診察室に促され、おとなしくスツールに腰かけた。主治医の先生の瞳の色がほのかに光ったような気がした。 )


(どうして。どうしてどうしてどうして、どうして!!) なんで、俺が バレーも、アイツも……諦めなくちゃなんねーんだ!!!(慟哭は白い部屋に響き渡る。)


(主治医の計らいで、あるいは病院側の都合であったかもしれないが木兎光太郎を収容した病室は単独の個室だった。急に世界がみんな敵になったような気さえして、一丁前に暴れ狂った後は手負いの獣みたいに張り詰めた空気を纏いながらもおとなしくしていた。みな、男の心情を慮ってくれている。だからこそ、とうとう告げられた死刑宣告に抵抗した浅はかさも叱責は少なかった。今はひとりにして、と告げた声音は低く冷たい。ただし、今日此処にいることを知っている少女がひとり訪れるなら、暫しの逡巡を経て見舞いを許すこともあるだろう。史上最底辺のコンディションを隠しもしないから、きっと彼女にはまた心配をかけるやもしれない。病を知る彼女がいて、家族がいて、医者の先生も協力的であることは確かだ、なのになぜか、孤独だった。男が戦うときは一人じゃないのに独りのようなことがある。今回ですら。否、今回ははじめから孤独な戦いだったろうか。繰り返し繰り返し、浮かんでは消えるまなうらの情景はコートとひとりの女の子だった。諦める、という言葉を使うのが嫌いだ。何もかも納得いく形で選び抜いた結果であるならまだしも、どうしたって諦められっこないふたつのことを無理やり天秤に乗せられて、さあ捨てろと迫られている。そんな現状がつまらなくて、引き裂かれるみたいに肺の間が痛くって、白いベッドの上悶え苦しむようにぐっと大きな身体を縮こませる。瞼を閉じる。手を当てる。暖かな手のひらの温度を感じる目の玉は宝石に変わろうとしている。彼女がきれいと言ってくれた瞳は、彼女のための思いでできていた!そう思うといとおしいのに、おなじだけ己の歩みを阻むわずらわしさだってある。くりぬいてしまいたい。でもそうしたら結局意味は無いからしなかった。病室の窓から見える空は暗く、雨音がするから降っているのかもしれない。不思議と涙すら出なかった。男はまたふがいなさにマットレスを殴りつけた。あきらめ、諦、あ、きらめたく、な――。違う。違う、ちがうちがうそんなことじゃない。俺は、俺が許せないのは、)………、!(何かを諦める選択をする自分が、なによりも、嫌いだ。そんなことをするくらいなら。そんなことを強いられるなら。――……嗚呼、そうか。これが。)

…………………っ、は――クソ。(この世のすべてを呪った夜。だれにも知られずに、知られぬように己の大事なものを殺した。腹の中で断末魔が響いているようだった。暗い部屋は静寂なのに、どうにもはなやかなのは自らの鼓動が内耳の奥で打ち響いているからに違いない。念入りに、丁寧に、二度と起き上がれないように息の根を止めて、出来る限り苦しんで死ぬように手加減して首を締めるような心地だった。瞳は透明な金の光。月の白よりももっと煌々とした、陽の光だった。そして、それは紛れもなく、彼女に捧ぐための、色だ。)
Published:2019/07/05 (Fri) 21:37 [ 8 ]