わたしの手は、神さまからのギフトだって思ってたの。
10度届く手。ピアニストの手。でも、それだけじゃなかったね。
きみの背中をこうやって、支えてあげられる手でもあったんだ。
――ねえ。それをきみは、こうふくだと言ってくれる?
Character
当時3歳。従姉妹の家でその漆黒の楽器に出会って以来、少女は脇目も振らずに鍵盤を叩いてきた。高梨藍という少女について語るとき、欠かすことが出来ないのがピアノの存在だ。あいにく天賦の才は持たなかったが、通わされるのではなく自発的にピアノに向き合ったことが奏功し、入賞することもある程度には技術を持ったコンテスタントへと成長。本人は演奏者を生業とすることを諦めておらず、次のコンクールへ向けて日夜特訓を重ねている。性格は明るくお調子者で、ざっくばらん。年上相手でも初対面でも物怖じすることはなく、自ら積極的に話しかけていく。本腰を入れられないと分かっていたし、万が一にも指を痛めては困るという理由から、部活動は文化部で個人活動の多い写真部に所属。レッスンやコンクール遠征を優先するため出席率は高いとはいえないが、気後れしない性格が幸いして部員たちともそれなりに上手くやれている様子だ。上背と同じく声も大きく、身振り手振りも大きい。演奏するピアノの音色についても性格を如実に反映して派手で大味なうえ、弾いているときの気持ちまで指先に載ってしまうのが持ち味であり弱点――とは幼少期からピアノを教える彼女の師の指摘。その音色が俄かに色づいていったのは、果たしていつの頃からだったか。好きな男の子が出来たわね?尋ねた言葉は真っ赤になって否定していたけれど、1曲聞けばどれほどの想いか、相手がどんな少年なのか、師匠には手に取るように分かるのだ。少女においては、奏でる音楽が他のなによりも雄弁なのだから。
Daily
…………、(トン、トトン、トン。ひとりでに――という形容が相応しい正確さで、左手の指先が机を叩く。それはピアノだ。少女の頭の中ではその運指に合わせて、華やかな音色が鳴っているのだ。双眸はぼんやりと空を見つめ、右手に握るフォークには数分前から卵焼きが刺さったまま。「藍ってば、」隣に座る少女から肩を揺すられようやく、高梨藍はクラスメイトと過ごすランチタイムの教室に戻ってきた。)あ……ゴメン、課題曲にトンでた。……なんの話だっけ?月9?(もぐもぐと卵焼きを咀嚼しながら、左手を顔の前に掲げ懺悔のポーズ。ドラマの話題はとうに過ぎ去っていた。友人たちはあきれ顔、それでも問いかけをもう一度繰り返して聞かせるのだから親切だ。左右と正面に座る3人が、完璧な連携で台詞を分け合う。「だからぁ」「藍は彼氏作らないのかって」「告らないの?アイツに」。んぐっ、と喉が動揺で鳴る。)わたっ……しは、ま、満足してるし?今のかんけ、(い、と言い切る前に、「嘘をつけ」と目で制される。同級生の“彼”にほのかな恋心を抱いていることは、早くに白状していた。毎日会いたい、会えたら話したい、話せたなら、次は。そうやって欲が出るのが片想いというもの。もちろん少女も例外ではなかったが――けれど口にした言葉が、100%強がりというわけでもなくて。)うぅ……でも真面目なはなし、今は本当にそんな気分にはなれないんよ。部活の邪魔したくないし、わたしも、コンクールあるし。なんか、目指す山頂は違うけどおたがい頑張って登っていこうぜ!みたいな……いい意味でのプレッシャーをもらえてるから、(「今は本当に、それだけで満足」。少女が心からそう思っていることは、そっとはにかんだ頬のばら色を見れば疑いようもない。事実、恋に落ちた彼女の音色は以前とは比べものにならないほど多彩になった。些細なことで舞いあがる気持ち、他の女の子といるのを見てじりじりする気持ち、会えなかった日の、胸がぎゅうっと締めつけられる気持ち。それらの感情は少女の演奏に深みと説得力を増し、これならあるいはコンクールもと、自分自身でも手応えを感じつつある。力任せなばかりで薄っぺらかったわたしのピアノ。変えてくれてありがとうって伝えたら、意味がわからないと笑うだろうか。ふふっ、とちいさく漏れた声すらも甘いそれは、まるで砂糖菓子だ。まだあどけなく透明な恋。その恋がふたりを傷つけるだなんて、どうして予想できただろう。――彼女だって、思っていたのだ。目標へ至る登山の先、もしもおたがい納得のいく景色を見ることができたなら、そのときは、)