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肆.スピカが流れた日 |
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![]() 東路茉 |
(自らの瞳のことを考えたことなんてなかった。当たり前にそこにあって、"見る"という仕事を果たし、意識もせずに、頓着もせずに、身体の一部とて御髪のように指先のように丁寧に手入れをすることもなく。だから機嫌を損ねてしまったのかしら。そんな簡単なことじゃないかしら。折にまぶたを降ろして手のひらで更に上から蓋をする。光の濃淡も分からなくなって、何も見えない。天眼石はどうやら月の光をあえかに反射するらしいけれど、どうにも視覚への連結はされないように出来ているようだった。甲斐甲斐しく世話を焼かれる環境はいつかの母親である、弟でもあったから、東路家では然程珍しい光景ではなかった。女学校にいるから孤独な塔の一室に閉じ込められたけれど、病を理由に虐げられない家庭環境は恐らく此処よりももっと優しく出来ている。──それでも。それでも、東路は自らの意志で牢獄じみた部屋に居たがった。寂しくなるのは夕方だった。毎日待ち遠しくなる夜だった。暖かくて可愛らしく甘ったるい夜闇が連れてくる花の香りが、東路茉を生かしていた。夜のために、生きていた。)……あなた、前も優しかった。今も、優しすぎるくらいに、残酷ね。(窓際に置かれた椅子に座ったまま、戸口に訪れた男の顔をじいと見つめる不躾にも、男は既に聞き及んだことであったか苦笑を滲ませた。「もう目はほとんど見えないんだろう?」「私は、少し惜しいよ。」「きちんと卒業まで待っていた、待つつもりだったのに」家が決めた決定に少しも抗う素振りは見せないくせ、初めて吐いた口説き文句。いつも自分のことしか話さないし、未来のご立派な構想と東路と彼との利害について語るばかりの口唇が、こんなところで僅かに砂糖をまぶすなんて。東路は少しだけ笑った。けれどそれ以上の言葉は言わなかった。夢見る乙女としてそんな台詞は落第だし、こんな場面になって漸く絆されるような男は願い下げだ。手に入らなくなってやっと執着がわいたみたいなこと、自覚させないで欲しかった。)……海は、少しだけ見てみたかった。もう一度、ね。(でもそれは貴方とじゃない、とは言わなかった。小さな呟きは男に聞こえたかどうかは分からずとも、後を濁さず綺麗な終わりを望んで、男の矜持を守ってやった。告げられた御両家の決定は想像し得るものであったし、恐らくは過保護の賜物でもあるだろう。病の妻を持つ夫の気持ちは父が一番良く知っている。その判断できっと、彼は信頼が足らなかった。それだけのことだ。凡そ婚約者だった男が一方的に話すだけの数分間、さようならで締めくくられる其れはこれまでとそう変わりなく、日常をひきずったまま、これで二人の物語は終わりを告げる。粉砂糖が溶ける間ほどの呆気さで。)……、…華映ちゃん。(男の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、指先をきゅ、と握った。少しだけ心細さが増していた。時間はもうない。此処に居続けることも、彼女の傍に居続けることも出来ない。石になった瞳を見てきれいだって言ってくれた。誰にもあげたくないって言ってくれて、治してくれるって、憂いもすべて何もかも食べてくれる──たくさんの約束をしてくれた彼女が、彼女だけが今の東路のすべてだった。まなうらに浮かばす愛らしさが胸を締め付けるから、浅い吐息をして薄ぼんやりとした窓の外に顔を向けた。)どうしましょう。……どうしよう、華映ちゃん。わたし、治らなくてもよくなっちゃった。(日が沈む。夜が来る。大空に緋色の錦を広げて燃えて揺らめく太陽は静かに消えていく。天眼石──この瞳は、何を見たいんだろう。) |
Published:2018/12/15 (Sat) 23:59 [ 23 ] |
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