ブーゲンビリアをあなたに

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終.慕情の色彩
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東雲華映
(月夜に生きた三週間。そんなに長くもない人生の中で、最も永く、最も短い日々を過ごした。日毎彼女の双眸は正しくあるべき光を欠いて、そのぶんだけ月のひかりを蓄えきらきらと輝く。彼女じゃなければきっと、途方も無く魅入られてしまうことも無かったのだろうと思う。彼女じゃなければ。元よりうつくしいその人の、異世界の風采さえ湛えるそのさまが、きれいだなんて思わなかった。こんな処まで来て尚、惹かれることなんて。それでも、彼女じゃないと駄目だった。過日望んで手中に収めた真実を、未だ持て余す胸裡は稚いままで、迷うばかりの顔貌はきっと上手に笑顔だけを形作れていやしなかったから、いつだって自身のきもちを見抜いてしまう彼女の双眸に、すべてが正しく映じられなくて良かったとさえ。迷いの面差しは、けれど約束の日を前に、この期に及んで彼女と共に在れることの方が嬉しかった。手遅れなぐらい、小さな両の手にはもう抱えきれない慕情。)……おねえさま、起きていらっしゃる?(ささやく声色が、閉ざされた扉の向こうに届くことを知っている。夜去の逢瀬でばかり足を手向けた廊下は、陽の光に包まれると存外埃っぽいものだった。鳥も眠る早朝。写真が出来上がるのは三週間後、と、ずうっと楽しみにしていた今日も嘘じゃない。端から期日に一緒に引き取りに向かうものだと勝手に盲信していたものだから、約束というかたちで口にすることはしていなかったかも。どちらにせよ彼女の認識の如何には拘らない所業は規定事項に違いないから、おはようのその前に。扉を開け放たれる前に、此方から踏み入ってしまう不躾は、秘密の逢瀬で培った悪癖のひとつだった。)わたし、あなたを攫いに来たのよ!(なぁんて戯れはこの段に及んできっとちっとも笑えない。彼女の柔らかな絹の手を、砂糖菓子よりも大切に包んでは、言葉通り鳥籠から連れ出さんと、逸る踵を彼女の歩みに揃えながら。)
Published:2018/12/17 (Mon) 11:27 [ 25 ]
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東路茉
(冴え冴えとした朝だ。朝日に舞い烟る塵のきらめきに眩むこともなくなった眼はどんなに空を見上げても、夜よりも明るいことを認識できるだけで輪郭の殆どが覚束無い。きっと素晴らしい日になる。晴れた朝は幸福の予感をさせるから、朝から立った台所の冷たさも気にならなかった。まな板に置いた青菜を包丁で刻んでいく音、卵をかき混ぜる箸の音。鍋に垂らした油がじゅわりと弾ける瞬間から、食べてくれる誰かのいただきますを想像して小さく笑った。──もう、随分と遠く聞こえる、嘗ての思い出。)うん?……おはよう、華映ちゃん。(例外なく鍵のかけない扉は「開いてるよ」と示しかけて、飛び込んでくる気配が来訪者の答え合わせに近しい。滲む喜色は焦点の合わない瞳を細めて和らいだけれど、)さらいに。……攫いに?(堂々とした宣言は有無を言わさず勢いのままに首を縦に振った。ついてきてと言うのなら従わない理由もなく、ここを出るなと言われている大人の言うことより、夜明けを連れて世界を取り戻す救世主みたいな頼もしい背中の方が何倍も信じたかった。だから、決めていた。例え目が見えなくなっても、もう二度と会えなくなっても、やりたいことをやるのだと。彼女の朗らかな生き様みたいに。──歩み出すと怠けた千鳥足がたたらを踏んだ。傾ぐ体躯に、わ、と喫驚に開いた口許を淑やかに指先が隠す間もなく、支えられた手のひらに暖かい指先が重ねられる。きっと幾分も遅く、ゆっくりとした歩みの速さだろうのに自然と当たり前みたいに合わせてくれる優しさに胸の鼓動は速度を容易く加速する。)ねぇ、華映ちゃん。逃避行、ご存知?(人知れず、囚われの檻を抜け出してふたり。ひかりの道を逃げていく。攫ったのは彼女かもしれないけれど、抵抗もせずついて行ったのは東路だった。最早道の区別もつき辛い東路にとって、彼女の示す方向と彼女のいるところがただ一つの居場所だから異論などそもそもない。──このままふたりでどこへでも行きたい。繋いだ指先に力を入れて強く握り、先導する彼女の僅かな後ろから小さく問うた。)歩きながらでいいの。ひとつ、わたしのお話を聞いてくれる?
Published:2018/12/19 (Wed) 08:28 [ 26 ]
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東雲華映
ええ。(ふふんと威張るみたいに肯うのは褒められたがりの弊害のようなもので、こと彼女に向かう感情の真っ直ぐさには迷いがない。夜の廊下も、朝日の通い路も。大好きなひとのぬくもりと共にあれば映る景色はひかりにばかり彩られる。彼女のそばにいる時はいつだって例外なくそういうものだったから、晴れ渡る感情の機微に意味を付そうと思い至りさえしなかったのは、幼さゆえか根の単純がゆえか。恋、の一文字が胸裡に根を張って思考の邪魔をする傍ら、彼女の動向ひとつでささめく鼓動は呼吸と同様のことだった。覚束ない足取りが痛ましくてすこし切ない。咄嗟に手を差し伸べる瞬間、きゅっと険しく寄った眉根は、たいせつな黒曜に映ろうと映るまいと隠蔽叶わぬ情のひとひらだ。)だいじょうぶ?……また、見えないものが増えているの?(苦言に非ず意味を成さぬ問診の口振りで、事実だけを問うたって、どうせまた胸が締め付けられるだけなのに。解していても心配が先立てば、伺い見るように注ぐ視線が不安げに揺らいでしまう。だから寄り添う足取りは殊更やさしい速度で、たとえ日が暮れて朝が来たって彼女の隣に在れるのだったら構わなかった。)逃避行。(ゆるりとのんびり屋の舌先が反芻する。言葉の響きに尽く反した呑気は、この期に及んで危機感が些かばかり足りない。)それって、悪いことかしら?(わからないわって無邪気な不遜を模して宣う。牢獄の檻に等しい寮の門は、元より規則を破ろうとする不届き者を想定されていないから無防備な内鍵は捻れば開いてしまった。鳥籠を抜け出して、風切り羽を持たない囚われの鳥を攫い出す行いが善か悪かだなんて狡猾な脳裡は解りきっているのに、だから却って胸の空く想いでいる。遁走と言えぬほどのゆるやかな足取りは、まるでいつもの二人のよう。冬の風で冷えてしまわぬよう、力の籠る指先は離さないままで。意味はないってわかっていても、それでも癖のように手向けてしまう視線でこたえる。)……ひとつ、なんて言わないで、おねえさまのお話だったらいくつだって聞きたいわ。なあに?(微笑みが、そのまま声色になる。)
Published:2018/12/21 (Fri) 23:34 [ 27 ]
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東路茉
そうね……、輪郭と色はぼんやりとしているの。何が分からないのかしら、あんまり変わってないようにも見えるわ。(この世界は彼女がいる限り明るいし、彼女がいることさえ分かればいい。なんて思っていること、見つかってしまったら怒られてしまうかしら。此度の事を病より語るか恋より語るか、東路の幼い時節の切っ掛けから長らく紐解くもひとつだが長すぎる。その全てに、長くも短かった軟禁生活の全てにも、くるくると跳ねる仔犬のような愛らしさがちらついて、少女は東路茉でいられたのだ。何に狂うことも無く、ひねくれることもなく。ひとりぼっちは大雪の冬に似て、しんしんと静けさが身のうちに降り積もって行くように心を固めてゆくばかり。寂しさも侘しさもひとりでは暗い海に沈みゆくただの重しにしかならない。彼女が連れてくる、あおくさやかな風が春を呼ぶと知っていなければ、到底耐えられなかった。歩速は遅くとも足取りは軽い。隣の彼女が明るく笑うなら、どこへでも行ける。)わたし、恋をしているの。(彼女が望むなら、どこにでもついて行く。繋がった指先のほのかな熱が朝のつめたい空気で冷えてしまう。それがとても勿体なくて儚くて、離したくない思いが強まる力にうつり込む。)なによりも大好きで、たまらなくいとおしくて、きっとこれがわたしの一世一代の恋ってものなのねって思ったわ。詩の授業は得意じゃないから、綺麗な言葉には出来ないんだけど。(照れたようにはにかんで、それでも滑らかな唇は夢のような想いを告げる。瞳が石になった私はどこにも行けない。場所を変えて囚われる家は一人ではないけれど、二度と春は来ないから。)そんな、恋だったの。華映ちゃん。──あなたが、好きよ。だぁいすき。(とろけるような甘さで響く声は手を繋いだ先にいる彼女を向いていたらいい。黒い光芒はどうか、彼女のことだけを見る玉のひかりでいて欲しい。そして、この恋はここに置いていくわ。彼女がいなければ意味の無い恋だもの。)
Published:2018/12/23 (Sun) 19:14 [ 28 ]
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東雲華映
(愛しい、侘しい、息苦しい。降り積もる理不尽は足元に重く伸し掛かり、問うたくせしてまた一つ面差しに悲痛が入り混じった。どうしてこのひとが。幾億と心の内で自問自答を重ねた不愉快な不可解に解のないことを知っていて、それでも恨まずには居られずにいる。)……わたし、おねえさまの作るお菓子がいちばん、この世のなによりも大好きよ。(まるで噛み合っていないような言葉が唇を割った。愛の告白みたいな響きで外気を揺らす。あのやさしさばかりで形作られた、甘い甘い幸せが、失われることなんて到底受け容れ難くて下唇を噛む。わたしの幸い。わたしの憩い。好きを冠するそのすべて。今この手に繋ぎ止めているのに、離さなければならないことを知っている。知っていた。どんな季節だってあたたかさに満ちている春風の穏やかさで耳朶を揺る声色が、唄うように告げるそれにひとときまたたいた。不穏ばかりが横溢していた胸裡に一陣の風が吹いて、)……恋?(何時だか口にした折よりも余程、柔らかな音でなぞらえるのは。まどかないびつで象られたこの情に、きっと重なる事象だった。少女の麗らかな独白を自ら望んで追い縋って、ひとつひとつを紐解くたびに、小さな胸が締め付けられる心地を知る。鼓動が軋む。未来を契った婚約者だとか、御家の世間体だとか、邪魔な御託が一つ残らず朽ち果てて、本能で解する。彼女がこの名を呼ぶより先に、雪解けを知った。)っ〜〜…(一際心臓が波打って、衝動的に彼女を抱き寄せた。彼女のことを腕の中に閉じ込めてしまえたらよかったのに、身長差を鑑みれば己の方が甘えるような所作になってしまうのが惜しい。)わたし、……あなたが、たいせつよ。大切なの……(ぎゅう、と一層抱き締めたら、痛いよって笑うかしら。腕に力を込めてから過ぎる思惟は場違いめいて訪れた。贖罪にも似た声が涙を堪え慄いて、決壊の寸ででくちびるのふちに押し止める慕情に果たして意味はあっただろうか。)……治すって、約束したから。わたし、聞いたのよ。おねえさまのひとみの秘密を。(あの日通った神社の眼前で、いっそ神様の耳にも届いたらいいのに。額を上げて、黒々とひかる双眸をみつめる。)初恋、が、ね。……叶ってしまったら、視力を失うのだと言っていたわ。それが本当に写真の呪いか病気かは、よくわからないのだけど、……(口を噤んで言い淀む、言葉を手繰る。指の縁で、宝石に触れたがっては一度きり、下瞼をなぞった。)だから、こんな気持ち、わたし、あなたにあげてはいけないのよ。 おねえさまから、光を奪いたくはないわ、っ……、なのに、(駄目、だって諌めれば諌めるほど膨れ上がるこころの一片が終ぞ一粒眸からこぼれ落ちる。)わたし、 わたしも、……この気持ちを、恋だって名付けたいの…。(だって全部がおんなじだった。彼女が恋と語るそれは、寸分違わず彼女に対して憶える情動の全て。世界の、ぜんぶ。)………ごめんなさい。茉、わたし、 あなたとだけ、生きて、死にたい。(途方に暮れて、悪事を働いた時よりも余程遣り切れない想いを、伝うはやっぱりわがままだ。)
Published:2018/12/25 (Tue) 17:12 [ 29 ]
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東路茉
(早朝の静けさにふたりぼっちの囁き声だけがこだまする。逃すことも間違うこともない言葉のはずなのに、にわかには信じられないような不可思議な音。自分で発した“好き”は手前勝手な衝動でしかなかったのに、手製のお菓子を美味しいと笑う彼女をまなうらで重ねながら聞く「大好き」は、鼓膜を震わせた細かな振動から身体中を駆け巡って心臓すら支配されてしまったみたい。彼女のことばかりで動く鼓動がうるさくなって邪魔になる。もっと彼女の声を聴いていたくて、ぐっと堪えるように眦を細める。訣別の覚悟を決めて放った言葉は、"好き"の思いに反して彼女の隣を諦めるような響きをさせた。だのに、いつだって本当に心から好いてくれているように感じられた彼女の真っ直ぐさが揺さぶって、酷く恨めしくて、ずるくて、わがままで、愛おしかった。全部全部大好きだったから、此度だってくすぐったそうに笑ってしまう。逃避行に漂う緊張感は、外因に左右されず自身の速度で進みがちの東路にはまだ届かない。あんなに暗く沈んでしまった檻の中が嘘みたいに、陽光の下、彼女とふたりで歩くささやかな時だけで東路をあかるくさせた。)恋はあまいんだもの、ね。──…っとと、あら。……華映、ちゃん。(引き寄せられたか、帯の締めつけをより強める抱擁に驚きは少しだけ足許が覚束無げによろめいた。支え合うようにして回した腕は、とくりとくりと早まるばかりの心臓の前にて、しがみつく彼女の背中を撫でて僅かな震えを感じ取る。泣きだしそうに滲む声音に煽られる心理は不安に似た心配症。どうしたの、と口を挟むよりも先に彼女が語りはじめたひみつには一抹の困惑を感ずるも然し、殆ど同時に判じて覚悟もしてしまう。迷いはなかった。きっとそれは視力を失ったのがわたしだったから。)わたしはあなただけを、ちゃんと見ていられたのね。(小さく噛み締めるような呟きの後、ゆっくりと細く吐き出す吐息に湿っぽさが混ざる。込み上げる情操は単純な愉悦とも悲哀とも言えぬ複雑さで真綿が如く東路の喉を締め付けた。意味のある言葉は塞き止められて、言いたい何かの為に口を開いては空気を震わせることなく閉じてしまう。告げられた彼女の葛藤にだって、確かに己への想いを見つけてしまえば単純な感情は喜色に彩られていく。されど、続く悲痛の声に引き摺られて切なさも増していった。もしも彼女の瞳が私の為に盲目になるのだとしたら、きっと、こうはいかなかった。──決断は、引き金は、触れる指さきの仄かなぬくもりによって。)華映ちゃんも、わたしのことが好きで、そうしたらこの瞳は視力を失う。……とっても、すてきなことね?(彼女の仕草を真似るように、目元を手繰って親指でそっと撫ぜる。つま先が雫に触れて、「悲しいの?」と意地悪じみた問いかけを投げた。)わたしは、嬉しい。後悔もしないわ、あなたがわたしにくれる気持ちが同じだって言うなら、その為に何も見えなくなるのも惜しくないの。ねぇ、華映ちゃん。(夢のような話をするなら、このままふたりで写真を受け取って魂が抜き取られるように永久のふたりの世界に飛び込んでしまいたい。彼女を巻き添えにして、それこそ死んでしまえれば、きっと幸せでいられる。──夢のような、話だ。)華映ちゃん、生きてほしいわ。華映ちゃんの元気なところが好きよ。はしゃいで、食べて、笑って──好きって、言って。好きなものを、大好きって。わたしを想ってくれるなら、わたしのことも。──あなたのための瞳に、してほしいの……。(にじむ世界はもう見えない。涙をいくらためたって視界が烟ることはなくなる。黒い石が澄んだ眼差しで彼女だけを見つめる瞳になる。わたしは、世界でいちばん好きな人に愛された証を手に入れる。ずっとずっと、あなただけを思う呪いみたいになったって、それでもどうしたって喜んでしまうから。たとえ、この先の人生で隣り合うことが叶わなくっても。愛された事実だけで、生きていける。)わたしに、あなたの恋を頂戴。(あなたが欲しいなんて言わないから。──遠くない未来に家が、学校が、世間が、わたしたちを引き裂くことは分かっている。辛い別れが待っている。それでも彼女の未来を摘むことは選べない。彼女が望んでも、東路茉は選べない。そういう意固地な選択肢を選び続ける自由が、女のすべてだった。)わたし、華映ちゃんが大好きよ。だれよりも、すき。ずっと。(縛られるのは私だけでいい。彼女には彼女の思うがままに生きることのできる自由を。推し量れない未来に願うのは、ずっと私を好きでいてくれたら嬉しい。そんな、最も強欲な祈りだけ。)
Published:2018/12/26 (Wed) 16:24 [ 30 ]