ブーゲンビリアをあなたに

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肆.スピカが流れた日
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山縣八千代
(密やかなる逢瀬を重ねる毎、娘の虹彩は輝きを増し、他方で娘の世界は光を喪っていった。それでも、過日以降、桃色と純白の縞抱く宝玉が涙の海へとしずむことが無かったのは、夜のしじまに唯一の旋律を受け止めることが叶ったからだろう。一人で歩むことが難しくなろうとも、不安を抱えることが無かったのは、手を引いてくれる存在がいたために。そして、その少女は、決して自らの手を離さないと心より信じていたがために。傍らに少女の存在を感じられるならば。一度は絶望に沈んだ娘の心は唯一の寄る辺を得ることで現へと浮上を果たし、嘗てとは比べ物にならぬほどに傾倒するようになった。盲目的。或いは、依存的。視線絡まぬ折には、情けなさに眉尻を下げることはあったろうが、双眸に悲哀が滲むことは無く。見えぬならば、触れることで、語らうことで、少女の存在をその心に刻み付けんとした。然う、盲目だった。娘のまなうらに刻まれる少女はいつだって凛と美しく、気高く、自信に満ちていた。ゆえに、直ぐ傍に在る少女の心に差す陰りの存在など気付けぬままに過ごしていた。刻一刻と悪化する事態──その渦中、中心に在るのは自分であることを認識しながら、少女を巻き込んでしまっていることすら理解しながら、其れでも娘は宵の刻を迎えると、過日と同じように、否、より恍惚な色彩で嫋やかに微笑んだことだろう。少女が浮かべるものとすれば蠱惑的で、けれど、淑女が浮かべるには稚さが残る──宛ら、恋する女の相貌だった。現況、娘にとって尊ぶべきは少女のみ。「御家のこと」など元より慮ることのない気質だ。だからこそ、婚約者を名乗る男が現れ、娘の双眸が色彩を詰られようが、婚約の破棄を伝えられようが、あどけない相貌にて「そう。」とただ微笑み受容するだけだった。そのときには、これで心を彼女以外に預けずとも良いと幸せすら感じていただろう。けれど次いで齎された「御家の決定」には、)厭よ──!(金切り声を上げて、叫んだ。学園を去り、家へと戻れば、夜は再び闇と静謐のみが漂う世界となる。あの御方に逢えなくなる。幾度も幾度も首を横に振って、もう碌に機能を果たさなくなった双眸へと敵愾心を滲ませて、)絶対、嫌!お母様が、お父様が──千代のことを、天使と愛するあのお二人が、千代を悲しませるようなこと、する筈が無いわ。馬鹿を言わないで!!(憎憎しげに然う紡ぐ。言葉を受け取った男は、ひどく気怠げな様子で呼気を吐き出した。唯一の少女とよく似た色彩の瞳に滲ませるは、憐憫か、それとも、憤慨か。そも、その瞳の色さえ映せぬ娘に男の胸中など量れるはずもない。けれど。「嘗てのお前は天使だったろうさ。」「なにせ、お前は、お前のお父君が喉から手が出るほどに欲し、けれど、どうしたって手に入れることのできなかった”権威”を齎すための大切な手段だったんだからな。」「先日の会席の場で聴かされたよ。山縣の娘、お前の名の意味をお前は何と心得る? ──女児の健やかな成長を願い、永劫の意の名づけを行う親は多い。だが、お前の場合は、願われたのは娘の幸いではない。山縣の家の繁栄だそうだ。それが、呪いを振り撒くお荷物になったんなら、仏だろうと掌を返すのが道理ってものだ。」続く滔々たる口吻には、確かな嘲りが刻まれていた。言い終えた男は気が済んだとばかりに背を向ける。制止の音を紡ぐより先、扉が閉まる荒々しい音が耳朶に触れる。ぐらり、と重心が傾いて、思わず窓辺に手を着いた。)……、──っふふ(響くは一人分の声音。静寂を切り裂いたのは嘆きの嗚咽ではなく、笑声の欠片だった。)ふふふっ。 ──あはっ、(壊れかけた蓄音機が同じ音ばかりを奏でるように、娘は微かに肩を震わせながら笑声を奏で続ける。そうっと、指先に触れていたカーテンを開けば、斜陽の紅が瞳いっぱいに注がれよう。けれど、その紅にすら娘は心を傾けない。姿見の無い部屋において、唯一、自らの姿を映せるもの。磨かれた硝子の窓。掌全体を硝子へ添え、鼻梁が触れてしまう程に近づいて、久方ぶりに娘は自らの瞳の色を見る。)やっぱり。わたくしの、世界は……あなただけ。──ね、 龍子お姉様。(甘い蜜を孕んだかのような、うっそりとした響きが透明な硝子を濁らせた。)
Published:2018/12/14 (Fri) 22:55 [ 26 ]