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肆.スピカが流れた日 |
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![]() 松島千歳 |
(軍帽を目深に被り直す彼の動作を、少女の瞳が捉える事はなかった。足音に彼女の来訪を思い、けれども何処か平素と僅かに違う音に首を傾げていたのは数分前のこと。戸を叩く音に毅然とした声でどうぞ、と告げれば返ってきたのは男の声、告げられた橋立の名におや、とすでに機能を失いつつ在る瞳を見開いた。――静謐が空間を包んだのはほんの一瞬であるというのに、酷く長い時間であるように感じられたのは嗚呼、何故だろう。わからない、けれど。告げられる言葉を何処か他人事のように聞いてしまった理由はわかっている。少なからずの衝撃がこの胸へと齎され、同時にひどい落胆と、無力感を憶えてしまったからだ。現実逃避といえばそうなのかもしれないが、扨。そんな事を考えてもいられまい。堅苦しい調子のくせに、酷く申し訳なさそうに『すまない』と謝罪を零す“元”婚約者を見ることも叶わず、ただ少しだけ視線を下方へ向けたままで、息を吐いた。)……お前が謝る理由もないだろう。寧ろ……悪いね。こんなんで……こんなんに、なっちゃって。(彼がこの目を見て、どんな顔をしたのかなんてもうわからなくなってしまった。きっと驚いただろう、気味が悪いと思っただろう。それなのに一切それに触れることもなく、罵る事もなく、ただ酷く申し訳なさそうな声で家の決定を口にしてくれるのだから良い人だ、全く。……実直な男だと聞いている。大和男子として恥ずかしくない男だと聞いている。結局は、なんだかんだで語らう機会もなかった彼との出会いがこんな形とは全く申し訳が立たない。よく見えずとも伝わってくるのは彼の人の良さとでも言うべきか、根幹にある優しさのようなものだった。ついゆっくりと、口角を持ち上げては立ち上がり、一歩、二歩。ぼやけながらも其処に確かに人がいるとわかる場所へと歩み寄った。)……お前、いい人だね。本当に。……悪いね、おもてなしのひとつもできなくなっちゃってさ。茶くらい飲んでいけばいいって、ちょっと前なら言えたんだ。でも……嗚呼、いや。…………本当に、悪い。(様々な感情が渦巻いていた。無関係であろう彼にこんな迷惑をかけてしまった事だとか、この目のせいで結果的に振り回している事だとか。家同士の取り決めに縛られるのはお互い様だと笑いかけて、息を吐いた。)……お前にゃ、きっといい人がいるよ。私なんかには勿体無い……いや、私なんかじゃ釣り合わないくらい優しい、いい人だからね。幸せになんなよ、橋立さん。(ついぞ、彼の名を呼ぶ事はなかった。なにか言いたげな彼が言葉を発するより早く『まあ、折角来たお土産に』なんて適当を宣って、どうにかこうにかスケッチブックをひっつかむ。確かこのページは、実家で艦を描いた時の頁だったはずとぼんやり思って一枚を破いて彼へ押し付けた。彼は絵をじ、と見て、この目を見て、頭を下げて去っていった。――ひとり、残された部屋で机に突っ伏す少女を見守る者はない。)…………しのにも、迷惑かけるなぁ。(幼馴染がこんなんでは、彼女の家とも一悶着ありかねない。嗚呼、お詫びはどうしよう、どうしたらいいのだろう。――もう会えなくなってしまうかもしれない事実に吐き気すら憶えながらも静かに、息を吐く。)……疲れた。(それだけこぼせば寝床へと移動するでもなく、机に伏したままで目を閉じる。――彼に渡した絵が、艦船の絵ではなく、なんでもない日になんとなしに、幼馴染の笑顔を描いたものになっていたなんて見えない今では気付けないまま。海のような瞳は静かにふせられる。……明日なんて、こなければいいのに。らしくもない思考の侭で、微睡みの淵へと飛び込もう。) |
Published:2018/12/15 (Sat) 19:47 [ 31 ] |
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