ブーゲンビリアをあなたに

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續.渺茫なる春嵐の向こうに
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松島千歳
(現実を選んだことに、何ひとつの後悔など無かった。胸に確かな穴を開けていった初恋の思い出は、けれども幸いの思い出に相違ない。或いは人がこれを悲劇と呼ぶのだとして、けれども当の本人である松島千歳はだから何だと意に介さずに涼しい顔をする事だろう。寧ろこれを悲劇と呼ぶ人間を、分かっていないと呆れ顔で見やるくらいはやるかもしれない。或いは、浪漫を求めるべきだったのだろうか。嗚呼、考えても詮無きことだ。浪漫は、“そういうのが好きな女の子たち”に任せてしまえ。――ふ、と絵筆を握る手が止まる。この離れに人が来るなど珍しい事もあったものだ。千歳お嬢さん、と声をかけてくれる女中は、本邸にいた折柄の付き合いで、こんな奇妙な目の女にも優しくしてくれる。思えば、なんだかんだで父に、祖父には感謝してはいるのだ。こんな目になりながらも、良い暮らしをさせてくれるだけで十分に感謝するに値するだろう。)…………嗚呼、おどろいた。橋立さんが来ると、思わなくって。で、何かご用事?(来客として部屋に通されたのは元婚約者の男だった。学園を去ってから数ヶ月、彼と最後にあってからも同じくらいの時間が経っている頃だ。何処か気まずそうな彼を笑顔で招いて、お茶を用意する。女中にやらせればいいとは思うが、あの時用意できなかった分、なんて言い訳じみた何かを添えてお茶とお菓子を並べていく。そうして二人、なんでもない時間でいくつかのことを語らった。彼の家の事、己の女学校での生活のこと。改めて婚約者という立場を失えば、存外気楽に話せるものがいくつかあった。そんな中でふと、彼が取り出した一枚の絵。――あの日押し付けた一枚。すっかり艦船の絵だとばかり思っていたもの、けれども見えない視界の中でページを間違えて押し付けていた、幼馴染の絵を出される。そうしてこれは誰か、と問う声は何処か、柔らかい。)…………親友で、幼馴染。……忍っていうんだ。誰より立派で……優しくて、かわいい人だよ。(くるり、と自らの髪を指先でいじる。もしかしたら今後遊びに来てくれるかもしれない、とは口にしなかった。それ以上何かを話すと、もう泣いてしまいそうだったから。――彼はただ、そうか、とだけ口にしてきょろり、室内を見回す。そうして指差すのは、つい先程まで描いていた艦船の絵。『これのかわりに、あれが完成したら貰っていっていいだろうか』なんて言葉に思わず面食らった。断る理由もないけれどなぜ、を問う事もできないまま、数秒。彼はたった一言『大切な子の絵なのだろう』と、口にして。)…………うん、ごめん、橋立さん。……ありがとう、これ……渡しに来てくれて。此処、来づらかったでしょ、ほんと……嗚呼、うん、ううん、いい……それじゃあ、今月の終わりには出来ると思うから、さ……送るか、取りに来るかしてよ。(その後暫し語らった後、部屋で一人、絵を見る。誰よりも大切な、大切な――嗚呼)……ありがとね、しの。(関係性に明確な名などいらない気がした。彼女と己と、二人の間にある絆は確かなものだ。それをこうして、長く、長く守れるならばきっと。“私は誰よりも幸せだ”と、海の色を細めて、きっと言えるだろうから。美しき日々に、別れを告げる事はない。ただあわく、ほろ苦く、けれども優しい思い出を胸に、生きていけるならば。――私は。)
Published:2018/12/29 (Sat) 23:46 [ 41 ]