ブーゲンビリアをあなたに

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續.渺茫なる春嵐の向こうに
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仁科忍
(女学生という輝かしい時代を終え、親が取り決めた中野氏との婚姻を果たしたのち。殆ど波のないような穏やかな生活を送り、男女ふたりの子にも恵まれ大正から昭和を経て戦争を乗り切り、それから平成へと年号をふたつも超えてしまった。子は大きくなり、孫が生まれて側からみれば全てが順風満帆といった人生だったろう。羨ましいとさえ言われることがあったかもしれない。けれど中野忍──旧制仁科忍は、これっぽっちもこの人生に満足なんかできやしなかった。よい人生を送られましたねと言われても、不機嫌そうに顔を顰めているばかり。足腰が弱くなってとうとう入れられてしまった老人ホームでは、中野忍の前でこれまでの人生を振り返るのは禁止になった程だった。さて、平成も10年を過ぎた頃。お見舞いにとやってきた中学生の孫娘は、中野忍が所有する箪笥の奥から古びた写真を探し当てた。不思議そうにその写真を眺める孫娘に後から気がついて、どうしたのと声をかけよう。「おばあちゃん、この写真に写ってるのだあれ?」何度も目を細めてその人物を確かめようとするけれど、風化した写真は簡単には答えを教えてはくれまい。車椅子でよたよたと孫娘に近づいては、その写真を大事そうにそっと受け取った。)ああ、これは私よ。貴女と同じくらいの歳の頃に撮ったの。懐かしいわあ。(表情を緩めながら、皺くちゃな手で愛おしそうに写真を撫ぜる。写っているのはまだお互いの気持ちがわかっていなかった頃のふたり。けれど今こうしてみると、やはりあの子も私のことが好きだったんだななんて自惚れてしまう。)貴女のお爺様やお父様には絶対に内緒のお話しよ。(人差し指を唇に添えて、片目を瞑る仕草はまるで女学生の頃に戻ったような。今ではすっかり近くが見にくくなったために掛けた老眼鏡をぐいと指で押し上げる。ふたりの出会いのこと。彼女がとても絵を得意にしていたこと。一緒の学園へ入学したこと。もうすでにその頃には中野の元へ嫁ぐ事が決まっていたこと。それでもふたりは惹かれあってしまったこと。)そして彼女はある病を発症したの。玉眼症という、昔はあまり知られていない病気だったわ。この写真を撮ったのはね、その病気になる前のことよ。写真を撮ってもらった店主も同じ病気だったから、移ったのではなんて噂が始まってね、それから彼女は腫れ物扱い。目が段々と見えなくなっていくというのに、寮も一番高いところへ移されて……可哀想だったわ。私はこっそりお饅頭を持って会いに行っていたの。(昔を懐かしむように遠くの方を見てふふ、と小さく笑った。饅頭の包みがカサカサ言うたび、教師に見つかるのではとハラハラしていたあの頃は、まだあの気持ちが恋だというものと知らなかった頃だ。)彼女が実家へと戻ってしまう日、朝早くに抜け出して一緒に写真館へこの写真を取りに行ったの。その道中で彼女からの思いを伝えられたわ。でも、答えられなかった。私も同じように思っていたのだけど、まだ若かったし、私たちは女同士よ。あの時代に女だけで生きていくには不便すぎたし、何より思いが通じあったらあの子の視力は元に戻らないって知ってしまっていたから。(じわりと乾いた目元に涙が溢れる。慌てて指先で抜くって、はぁ、と小さくため息をついた。)それからあの子は実家へと帰っていって、私もすぐ中野の家に入ったわ。でも、その日を後悔しなかったことは一度もなかった。すぐにでも彼女に会いに行きたい、好きって伝えたい。──……けれどね、玉眼症の原因は初恋なの。もし私がやっぱり貴女を思っていると伝えてしまったら、またあの子の視力はなくなってしまうかもしれない。そう思うと、次第に会いにいく回数も減ってしまったわ。戦争も始まってしまったことだし仕方のないことなのでしょうけど、けれどやっぱりあの日の事を、私は後悔しているの、今でも。(なんだか切なそうな顔をしている孫娘に、にっと笑いかけて「貴方達に会えたのは幸せだったけどね」と元気付けるように言おうか。皺くちゃな手で、つるりとした手を握る。どうかこの子は、後悔のしない選択が出来ますようにと祈りを込めて。それから、もうすっかり大きくなって、あの日の自分の面影が残る孫娘を、穏やかな表情で見上げた。)
Published:2018/12/30 (Sun) 23:37 [ 42 ]