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参.ペイル・ムーン・シャドウ |
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![]() 茅倉牡丹 |
(薄い窓掛から差し込む月明かりは、冷え冷えとした一人部屋の簡素さを一層引き立たせる。灯りを入れたところで、もうよく見えないことに変わりはない。墨絵のように黒かった瞳に、異彩が宿ったことに気付いた時には、屹度遅かったのだと思う。貴女の瞳、血の色みたい――そういった誰かの声は、不安げだったし、恐れてもいたのだろう。呪いの噂は瞬く間に広まって、写真を撮ってもらったのは事実だから、笑い飛ばすことも出来ない。ただ、噂の中心に彼女の名前がないことだけが、一人の心を慰めるに足る事実だった。)――……"わたしたち、同じ女の子なのだって、いつか言ったことがあったわね。それが、嘘ではないということが、わかったでしょう。わたしも、ただの女の子。もう、プリンセスでもなんでも、なくなってしまったわ。"(いつか覚えた台詞を諳んじる。あれもまた屋根裏のシーンだった。もっと質素で、使用人部屋の風体だったけれど。メアリー・ピックフォードみたい。簡素な一人部屋に荷物を移したとき、そんな風に思った。案外気楽なものだ。元々友人も多くない。荷物もそんなには多くない。ただ、あの日に買った揃いのハンカチーフと、それから彼女に似合うことを思って選んだ色違いのワンピースは、無くしてしまわない様に手持ちの中に入れて、ひっそりと部屋を移った。活動写真で見た海の向こうの物語に似ている。恵まれた生まれの御嬢様が、父の不幸によって一転屋根裏生活。それでも高貴を忘れない小さな公女の物語。主人公の名前は忘れてしまった。ただ演じた女優の名前は憶えている。メアリー・ピックフォード。物語の中で少女は空に手を差し伸べた。屋根裏に追いやられた主人公の隣には、三つ編みおさげの友人がいた。おさげの少女は主人公の手を取ったけれど、この部屋には誰も一人きり。覚束無い視界には、部屋の仔細すら映らないけれど、閉じた瞼のまなうらには彼女の面影を描いていた。) |
Published:2018/12/06 (Thu) 14:35 [ 18 ] |
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![]() 葛城翔子 |
(――その日。同室の少女が寝静まったのを確かめたなら、音も無くベッドを抜け出した。人目につかぬよう細心の注意を払って急ぎ足で廊下を抜ければ、長い階段の一段目に足を乗せる。まるで猫の様な静かさで着実に進んでいく、迷いの無い慣れた足取りは昔取った杵柄とも言うべきか。けれども幼い頃、寝付けない夜に当ても無く彷徨っていた時とは違う。向かう先に確かな目的がある。息を殺して上を目指す眼差しは、平素の柔和な色を沈めた真っ直ぐなもの。冷たい緊張感に鼓動を速めつつ、急げ急げと駆けあがった。脳裏に響く、心無い声。ただそこにいるだけの彼女へ向けられた奇異の視線と“呪われた所為であんな色に”、“恐ろしい”、“移ってしまっては大変だわ”、そんなひそひそと耳打つ少女達の不安げな声は瞬く間に広まって、気付けは彼女はこんなにも遠くなってしまっていた。否定するには己が声は小さく、噂を覆すには力が無かった。写真を撮った少女は他にもいたであろう、何より自分だってそうなのだ。何も変わらない自分はどうなるのだと言っても、どうせその内にと冷えた視線を向けられるばかりで遣る瀬無かった。呪いだ何だという怪奇は舞台上の空想で十分だというのに。悔しさに唇を噛み、最後の数段を纏めて駆ける。扉の前に立てば、ふと彼女の声が聞こえた。内容までは分からずとも、彼女がまだ起きていることが分かる。ほっと胸を撫で下ろし、結わず下ろしたままの髪を手櫛で少し整えては控えめに戸を叩いた。)………私よ、牡丹ちゃん。(抑えた声音は届いたろうか。彼女との接触は避けよとの指示だったが、そんなの知った事じゃない。それに元より、大人に素直に従う程善良な性根ではなかったから、もう一度戸を叩き「入っても?」と請う。) |
Published:2018/12/07 (Fri) 20:36 [ 19 ] |
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![]() 茅倉牡丹 |
(姉さんどうしているかしら。ふと思い出すに事欠かない。茅倉は上級の御姉様と一緒に写真を撮りに行ったのだと、声高な噂を耳にしたとき、「あの人は関係ないわ」と口さがない乙女をぴしゃりと跳ね付けて、それがまた滅多にない剣幕で言ってしまったものだから、その手前、呪いの真偽が分からないこともあって、随分久しく会っていない気がする。けれども、叩扉に次いで、扉の向こうから聞こえる声音を間違えようはずもなかった。)――ええ、姉さん。鍵は開いていてよ。入って、どうぞ。(宙を彷徨う指先は、ぱたりと寝台の上におりて、入室を促す言葉と共に、立ち上がる手掛かりにならんとリネンを滑る。軽く目を擦って頭を振れば、幾らか視界もはっきりする気がする。窓布を掛けて、灯りを入れよう。この部屋は、人を迎えるのに相応しくはないから。ゆっくりと、ともすればただ淑やかな動作でもって、部屋の様子を取り繕う。そうしながら来訪者が扉を開けるのを待って、一通り済んでしまえば、戸口の方へ顔を向けよう。)お出迎えもしなくてごめんなさい。やっぱりどうしても、目の調子が良くないものだから。(ぼんやりと人影を見とめるに留まる視力は、近付けば近付いた分だけまだはっきりと像を結ぶことも叶おうけれども、戸口からは距離をとって目を眇める。それでも矢張りよくよく見ることは出来なくて、困ったように少しばかり眉を下げた。)此処へ来てはいけないと、言われているのではなくて?それも、こんな夜更けに。呪いがうつってしまうかもしれないと、専らの噂よ。(首を傾げれば髪が肩を滑り落ちる。急に自分の格好が気になった。みっともなくはないかしら。まだ身支度くらいは一人でどうとでもなるけれど、なにせこの部屋には姿見もない。私は至って平静、何も変わらない心算でいるのだけれど。彼女の目には、どんな風に映るのだろう。) |
Published:2018/12/09 (Sun) 17:02 [ 20 ] |
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![]() 葛城翔子 |
(彼女の瞳に変化が表れて以来、ぱたりと顔を合わせる機会は減った。元より学年も異なるのだから当然のことかもしれないけれど、自分から会いに行くことで彼女へ余計な注目を集めることは本意では無かった。教師からもそこを突かれ、「あの子を想うなればこそ、今は大人しくしていなさい」と釘を刺されたこともある。――なぜ、と握り込んだ拳がスカートに皺を刻んだ。尾ひれがつき独り歩きを始めた噂話を耳にする度に、怯えたような囁き声が耳を掠める度に、呪われたのが自分であれば良かったのにとも思った。毎日、毎日、鏡を覗けども変わらぬ虹彩に舌を打つ。そうして募った遣る瀬無さは遂に、この扉の前まで駆けさせたのだった。)良かった、ありがとう。お邪魔します。(そう紡いだ声音を染める安堵は、拒絶無く受け入れられたことによるもの。慎重な手付きで扉を開けたなら、灯りに照らされる彼女の横顔が目に入った。揺らめく光に照らされるその瞳はまるで炎の様に美しく暖かな色をしていて、目を逸らせない。魅入ったまま後ろ手に扉を閉めたなら数歩進んで、視線を交えて微笑んで見せ。)謝る事じゃないわ。私こそ、…突然ごめんなさい。(言い終えると同時、きゅっと唇を結ぶ。睫毛を伏せて、やけに痛む胸を抑えつけた。手を伸ばせばすぐに捉えてしまえるくらいまで近付いては、「目……痛んだりはしない?眠らなくて平気?」と問うた。平然を取り繕って。)そんなの知らないわ、それに規制されるほど逆らいたくなるの。天邪鬼なのかしらね、私って。…でも見つかってはうるさいから、誰もが寝静まったこの時を狙ったのよ。牡丹ちゃんが起きていてくれて良かったわ。(変わらない調子であることが、哀しくも嬉しかった。燃え盛る輝きは遠目に見るよりもずっと澄んだ美しさで、彼女らしい色だとも感じた。真っ直ぐに見つめたなら、肩に落ちた髪をそうっと耳にかけて笑声で柔く紡ぐ。)仮に伝染するものだとしても、とうに手遅れよ。だって、二人一緒に撮ったじゃない。私の両目もその内、呪いを顕現してしまうかもしれないわね。(彼女の両手をぎゅうと握るように包み込み、密やかな笑い声を零した。これまで通りのそれは、変容した瞳も質素な部屋も関係無い、まるで他愛ない日常のワンシーンであるかのような穏やかさであったろう。たった一つ、痛みを堪える様な不器用な笑みだけが、何時もとの違い。) |
Published:2018/12/10 (Mon) 19:47 [ 21 ] |
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![]() 茅倉牡丹 |
(扉が開くとともに明瞭となる乙女の鈴声に、暗い色のなかったことに、どれだけ安堵したことだろう。恐れ、不安、畏怖――聞き飽きる程も耳にした。光を失うにつれて他の感覚は鋭くなると言う。視線の意味、言葉の含み、周囲に揺蕩う空気の流れまでも、何時かわかるようになるのかもしれない。けれども、今はまだ、視界に縋ってしまう。彼女の姿を見つめて、瞳は彷徨う。輪郭や動作を捉えることはできても、その仔細を見極めることはできない。眼鏡とて最早意味もなく、惰性でかけているようなものだ。距離が縮まって、漸くそのかんばせに焦点を合わせることが叶えば、それだけでこんなにも嬉しいものかしらと、胸にこみ上げるものを抑えてゆっくりと瞬きを一つ。頭を振って、「平気よ。それよそり、お顔を良く見せて」と強請ろう。彼女の姿を目に焼き付けんとする瞳の奥は、宛ら熱を持っているようにちりちりと痛むけれど。やわらかく眦を細めて。)姉さんはきっと、パンドラの箱を開けてしまう人ね。……来てくださってありがとう。ここは眠るには静かすぎると思っていたところよ。(この最上階の一人部屋には希望というものさえ残っていない。皆の寝静まった夜更けには、衣擦れの音一つ響かず、深々とした静けさは、時に耳が痛くなる程にも思えた。それでも顔色の変わらぬ様が、もしかしたら噂を助長しているのかもしれない。赤く燃える色を宿した瞳。別にどうということはない――はず。見えなくなることは差し置いて、寧ろ、そう。モノクロームの人形に生きた意思が宿ったようだとさえ思う。けれども、彼女の瞳に呪いが宿ることを思えば俄かに眉をひそめて。)…駄目よ、それはいけないわ。見えなくなったら、譜面が読めなくなってしまってよ。姉さんから御歌やピアノを取り上げるなんて、そんなこと、あっていいはずがありません。(痛ましい空想を繰り広げるように失明の結末を思い描いては、柳眉に憂いを宿し、彼女を見つめる炎の瞳は至って真剣に。そっと手を握り返して、耳に心地いい密かな笑い声に反してぎこちない笑みを視界に捉えれば、繋いだ手を引いてもっと近くへと求めよう。額の触れ合う程に、近づけたらいい。移ってしまうというのなら、これっきりにするから。本当にこの目が光を失う前に、今だけは。)……本当に目が見えなくなってしまったら、今までと同じようにとはいかないけれど、翔子ちゃんが手を引いていてくれたら、何処へでも行けるわ。だから私、怖くはないのよ。……そんな風に思っていて、翔子ちゃんが卒業してしまったら、どうしたらいいかしらね。(翔子ちゃんの手は魔法の手。きれいな音楽を奏でる手。何処へなりとも誘う手。ぬくもりに触れて、心が緩んだらしい。ぽろぽろと零れてゆく言葉の端に、少しだけ弱音が滲んだ。) |
Published:2018/12/12 (Wed) 16:10 [ 22 ] |
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![]() 葛城翔子 |
(薄い硝子の向こう、色を変えたとはいえ平常通りの眼差しについうっかり、ここが最上階の個室であることを忘れそうになる。空いた部屋にて秘密の逢瀬を楽しんでいるような、そんな舞台のワンシーンが脳裏を過ぎっては、おかしくなって小さく笑みが零れるのだ。扉を潜り縮まった距離、どれだけ声を潜めても互いに届けてしまえる距離。月明かりに照らされた柔い表情にとくりと胸が鳴る。こんな夜更けに顔を合わせたことなどあっただろうか。どれだけ二人幼い頃へと思い出を遡っても思い当たらなくて、こんな時だと言うのに緊張してしまう。部屋を抜け出す時も、廊下を駆ける時も、微塵もしなかったのに。「いいわよ、……私も牡丹ちゃんのお顔をもっと見たいわ、なんだかとっても久しぶりの気分なんだもの。」小さく踵を上げ距離を詰めたなら、同時に両手を伸ばす。五感の全てで自身を感じて欲しかった。見え辛くとも、確かに此処にいると伝えたかった。柔い頬を包み込んで温もりを分け合いながら、照れ臭そうに微笑んでは「見える?」と小首を傾げ。)そうねぇ……あまり否定は出来ないわ。でも、箱を開けると牡丹ちゃんに悪い事が起こるぞ、なんて事を言われたら我慢出来るかも。お礼を言われる事じゃないわ、来たくて来ちゃったんだもの。…ふふっ、それじゃあ眠くなるまでお話してましょうよ、まだまだ夜は長いもの。(さり気なく見渡した室内は最低限の設備しか整っていなかった。うら若き乙女の一室だというのに鏡の一つもありはしない、彩と言えば彼女の瞳を染めるそれくらいのもの、だからより一層その輝きが強く輝いて見えるのだろうけれど、この部屋はあまりにも寒々しく、寂しい。――お茶とお菓子でも持って来れば良かったと零したのは、まるで退屈な子どもが不貞腐れるような声音。少しでも暖かく、彩ってやれたなら良かったのに。)読めなくても、譜面に触れれば、或いは誰かの音を聴けば、ピアノに触れられるわ。それに、そう言うなら牡丹ちゃんこそよ。…見えなくなっては、役者として舞台に立つのは難しいでしょう…?(真剣な調子へは飄々と返すくせに、いざ彼女自身の未来を思えば声のトーンが一音下がる。繋いだ手を引かれるがまま、落とした視線をそろりと持ち上げて美しい瞳と交合わせる。)………私、今ほど牡丹ちゃんと年が離れていることを恨んだことは無いわ。(額を摺り寄せて、繋いだ手に力を籠める。重ねたまま、いつかのように指を絡めて、離さないように。ゆるしてくれるのなら、今にでもこの手を引いて駆け出してしまいたかった。滅多に耳にする事の無い声色が静かに心を染めていく。彼女の名前を呼んで、右手を差し込める程度の距離を取ればその前髪に触れる。それから、指先で掬って露わにした額へ、柔らかく口付けを落とした。)おまじないと、約束の証。……卒業するまでに、絶対治してあげる。治るまで、ずっとずっと手を引いて、牡丹ちゃんの行きたい所、どこにでも連れてってあげる。だから、(――その続きを、この想いを、どう紡いだらいいものか分からなくて、結果半端に途切れてしまったけれど。見上げた先へ微笑んで、そうだと閃きを胸に約束をもう一つ、結んだ。)治ったら、あのワンピースを着て出かけましょう。そうしてまた、お揃いのお洋服を選びましょ? |
Published:2018/12/12 (Wed) 21:11 [ 23 ] |
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