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肆.スピカが流れた日 |
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![]() 茅倉牡丹 |
(緩やかに、急速に、世界が閉ざされていく。失明というにはまだ遠く、しがみつくようにして朧気に光を捉えているけれど、ただ目を悪くしたというには視力の衰える速さが尋常でないことくらいは、医学に明るくない身でも理解できた。初めのうちは、次に目覚めたときには何も見えなくなっているのではないかしらと、得体のしれないものに対する恐怖を抱いて眠るに眠れぬ夜もあった。けれども、幾日かのうちにわかったのは、一思いに見えなくなるようなことはなくて、ゆっくりゆっくり、真綿で首を絞められるように光が失われていくということ。それから少しずつ、身の回りの整理を始めた。この狭い一人部屋の中でくらいは、一人で動けるように。まだ朧気ながらも物を捉えられた頃、それはほんの何日か前のことでしかないのだけれど、部屋に設えられたものの場所をできるだけ覚えて。寝台、机、窓、箪笥、扉。壁に沿って部屋の中を歩き回っては、何歩行ったら物にぶつかるかを試して、手探りで用事を足すことができるかを試して。私はまだ、この箱庭に執着している。一人で暮らせないようになってしまえば、何れ連れ戻されるだろうことはわかっていた。だから、此処で生活できることを証明しなければならなかった。けれども、呪いとやらは時間を与えてはくれず、やがて一人で歩くこともままならなくなり、部屋の中でだけはようやっと、そろりそろりと動ける程度。最早読み書きも出来ず、手慰みはと言えば、幾つも覚えた芝居の台本を習い性のように諳んじては観客のいない空へ向けて身振り手振りを繰り広げることくらい。それだって、最早意味のないことだ。光を失うことは、舞台に立てなくなることは、茅倉牡丹としての存在価値を失うことに等しい。じっと座っていることが増えるにつれて、考える時間が増えた。私は何者なのかしら。何者になりたかったのかしら、と。――それから幾日か、聞き慣れない足音が耳を打った日、もう目は殆ど見えていなかった。婚約者の訪れを告げる声に、おや、と思ったのは確かだ。けれど、喜びも歓迎も、胸には一つも湧いては来なかった。彼の御人は、どんな御顔をしていたかしら。この目が彼の人の姿を捉えることはない。思い描く姿は、背広を着て胸元に脱いだ帽子を抱えている。壁と同化して殆ど何処にも見えないくらいだから、屹度ベージュの背広だろう。彼の人が息をのむ音が聞こえて、そこで私は人影を探すのを止め、俯いた。物を映さぬくせに、磨き上げた石の様な輝きを宿す瞳は、さぞ気味が悪かろう。嗚呼けれど、彼女は、姉さんは。この瞳を恐れなかった。治してあげると言ってくれた。てのひらに、温もりの記憶を探す様にこぶしを握る。「……婚約の解消をお伝えに参りました。」そう告げる彼の声の硬いことは、耳を澄ませずとも聞き取れた。)……そう。(言葉が脳に吸い込まれて、波が引く様に心に静けさが訪れる。いよいよ目の前が暗くなったように思われた。決して比喩ではない。胸に過った想いとは裏腹に、一呼吸の瞑目の間に、この目は一層光から遠ざかったらしい。)お話はわかりました。私の両親と、其方との話し合いで決まったことに、私は文句を申し上げる心算はございません。どうぞ私のことはお忘れになってくださいまし。それから……どうか御内密にお願いいたします。(私は顔を上げて、声のする方を見た。否、見える筈もないのだから、顔を向けただけに過ぎない。そして実際には、私が見たのは明後日の方角だったのかもしれない。それは、対峙する者にとっては、私が不躾に顔を背けたも同然だったことだろう。呆れたような、機嫌を損ねたような、彼の人の溜息が聞こえた。それは決定的な決裂の合図だったように思う。もしかしたら、私が泣いて縋りでもすれば、彼は私を見受けしてくれたのかもしれない。それから交わした二、三の言葉は、なんの感慨もなく過ぎて、「学園を去り、親の庇護下に戻ることになる」「治療法を探して、渡航することになるかもしれない」おおよそそんな意味のことを告げられた。)………私は――。(甘くもない婚約者との逢瀬を終えて、誰もいない部屋に、空っぽの声だけが響く。一つだけわかったことがある。私は婚約破棄が嬉しいらしい。そして、心の向く先は一つしかない。そのたった一つを、私は。)翔子ちゃん……―――。(何処からも遠いこの場所で、ひとつの決意を、あなたに。) |
Published:2018/12/15 (Sat) 23:46 [ 25 ] |
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