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肆.スピカが流れた日 |
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![]() 宝生花雨 |
(影落ちる世界は日に日に光を失い、闇に閉ざされていく感覚の方が大きくなっていた。瞳に映るほとんどのものが滲みぼやけて、判別できるのはもう色くらいなもの。それも縞模様のようにあやふやであれば、自ら出来ることも限られてきていた。自立するのにも支えが必要、歩行には誰かの手が伝わるものがなければ難しい。手探り以外では何事もおぼつかなく、身支度さえも儘ならない。幾度か彼女が訪ねてきてくれて、その姿を迎える度に安堵をしていたものだけれど今は、一番最初にはっきりと映ったその輪郭が判別できないことがかなしい。姿を探すほどではないけれど、しっかりと眼差しを合わせられているかの自信がもう持てなくて。自分一人で出来ることと言えばもう、弦に触れる事くらい。これだけは手探りでもまだ奏でることが出来た。その唯一に触れてベッドに、或いは椅子に腰かけたまま構えれば弓を引いて音が流れ出す。楽譜はもう読めないから感覚だけで知っている曲を弾いているようなもの。音だけを聞けば視力を失いかけている娘とは思えなかった筈だ。彼女は契りを残してくれたけれど、待っていてくださいという声だけでもう十分なほど。流れる音はこころを映したようになめらかで、けれど感覚だけで弾いているからやっぱり時折不安定。正しく今の宝生花雨そのものとして。そんな昼下がり、学園ではまだ午後の講義が行われている時間帯だった。来客を告げる硬質な音が三度部屋に響いたことで音が止む。こんな時間に誰かしら。彼女であったら嬉しいけれど、でも。不可思議義を抱きながら告げるのは「どうぞ」の三音。扉まで迎えたいところだけれど、もうそこまで歩く事さえ儘ならないものだから。キィ、と扉が開く音と、パタンと閉まる音がする。自分以外の気配が其処に在り、けれど彼女ではないことは何となく察した。一つ感覚が閉ざされれば他の感覚が敏感になるというのはほんとうのことらしい。「どなた?」と娘が首を傾け問うのが早かったかそれとも、“彼”が口を開く方が早かったか。――「お久しぶりですね、花雨さん」その声は温厚な笑みがよく似合う、婚約者のものだった。)あ……、お久しぶり、です。申し訳ありません。お出迎えも、ご挨拶も……満足にできなくて、(ぼんやりとした輪郭でしか彼の姿を捉えることはもうできない。楽器を下ろし、座したままの礼とて本来であらば非礼となることを知りつつ頭を下げ、淑女の嗜みすらもう満足に出来ぬことを噛み締めるその表情は眉尻を下げて情けないといった様子。子女として、淑女として、姉として、婚約者として。そのどれもがもう手本どころか、満足に役をこなすことも出来ぬと思い知る。だから続く彼の言葉には、驚きよりも当然だと思った。「お伝えすべきことをお伝えに、本日は参りました。私と貴女の婚約は解消され、宝生との縁談も一度白紙となりました。まだ決定はしていませんが……妹君のどちらかと、私は縁談を組み直す予定です。それから、貴女も遠からず、ご実家に戻るようにと。」その意味が分からぬほど、愚鈍ではないと思っている。だからそういうことなのだと理解するまではそうかからず。きっと困った顔をしていらっしゃるのだろうなと、想像ができるような声だった。いいえもしかしたら、恐ろしいものを見るような目であったり、あざ笑う様な表情をしていらっしゃるのかもしれないけれど、自分にはもう判断はつかない。ただその声音だけで、片手で足りるくらいの逢瀬や家同士の決め事にも拘らず良くしてくれたその人の在り様を思い出していた。)……そう、ですか。わざわざ伝えに来て下さって、ありがとうございます。……不出来な婚約者で、ご心労をおかけいたしました。御家の名に……貴方様の御名に、わたしの……わたくしの所為で傷をつけていないと良いのですけれど。(ぽつりぽつり、選ぶように語る声が震えなかったのは乙女なりの意地であった。視力を失う奇を患った不出来な婚約者であろうとも、最後くらいは背を伸ばしておきたい意地と、見栄。光あるころは手本であったからこそのそれで浮かべた笑みは、きっとうまく象れていたと思う。彼が膝を付き目線の高さを合わせてくれていたことを、娘は知らない。彼も娘の心の機微を知らない。多くを交わすことなく、けれど互いに気遣いと思いやりだけはあったと、少なくとも表面上はそう思える終焉だ。見送りも出来ぬ非礼を詫び、彼が退室したあとに一人残された娘は扉の閉まる音を聞いた後、そっと項垂れる。優しい方でした。御家のために役立てぬ不甲斐なき淑女にも、心砕いてくださった。なのに。異彩にきらめく瞳から一筋宝玉の欠片を零して、ひたりとその両手が顔を覆えば肩を揺らして懺悔の言葉が微かに唇から零れ落ちた。)……ごめんなさい、 ごめんなさい 、ごめん…なさい……、(覆った掌の内側で寄せた眉はハの字型。こんな姿は決して誰にも見せられない。彼女にも、だ。だって。)……わたし、とてもひどいおんなだわ。(御家の為に淑女にもなれず、乙女としてすらもう在ることを許されない。突きつけられて尚、唯一の色彩を夢見て心に浮かべている。震える声がはらはらと雨粒のように落ちていく。花散るようなそれは聞くものもなくただただ一人、透徹と共に雲一つない好天の空に滲んで融けた。) |
Published:2018/12/15 (Sat) 21:21 [ 28 ] |
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