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肆.スピカが流れた日 |
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![]() 万丈艶子 |
(病ならば医師に、医学書に。呪いと言われるものの正体が何であれ、同じような瞳を持つ人物をたったひとりでも知っているならば。握り伝う為の糸とするのに躊躇いなどなかった。円舞曲など打ち捨てるように、駆け足であの坂道を登っていく。袴の裾もひどく邪魔で、時にまろぶような足取りで息を切らしながら走る様なんて、とても見れたものではないのだろう。けれど、例えば子を愛する母が自分が産んだ大切な命に何事かあったら、形振り構わず駆け出すことだってあるだろう。大切なひとの為に捨てられぬ誇りや外聞とは、それほどに大事なのでしょうか。そのひとが、もう世界から光を失おうとしている時に、走り出すのは愚かでしょうか。そう思うなら愚かと嗤ってくれていい。何も掴めないままに、指を咥えて見ているだけだなんて、いっとう悔しくてやりきれない。ブーゲンビリアが飾られていない扉を開く時、ほんの少し、突然の無礼と思いはしたけれども。そのまま踏み入った写真館の奥、名を呼ばって見つけた不思議な瞳を持つ主に対して詫びの言葉を告げようとしたのに。客人であろう女性の瞳が黒真珠のように輝いているのを見たなら、真っ先に零れ落ちたのは、たった一言。どうして。)……どうして、その瞳になっても……見えて……どうして、花雨さんは、見えなくなって……(心臓が強く暴れて、息を吸って吐くだけが苦しい。胸元を握り締めて、絞り出すように、無理矢理に引き摺り出すように。音にした言葉が無遠慮で無礼であるのは分かっていたけれど。泣き出しそうになるのを堪えて、歯を食い縛る。違う、一番つらいのは自分ではない。失おうとしている、あのひとなのだから。何か少しでも取り戻せることは無いのかと、あるとも知れぬ希望に手を伸ばす為に此処に来た。だから、頭を下げた。)……教えていただきたいのです。おふたりが、どうしてそのような瞳になったのか…その瞳になっても、どうして見えているのか…お願い致します。(何を捧げたっていい。本気でそう思って、決死の覚悟とさえ行っても良いくらいのつもりでいたのに、穏やかな声が返った。こちらが拍子抜けするほどに。哀愁を抱く声が語る“病”の話。治療法が無いと告げられた時、体中の血が下へと流れていく感覚。では何故、と問うより先に、答えがあった。)初恋と…引き換え…?(恋は病に喩えられるものではあるけれど、本当に恋と引き換えに治る病があるというのだろうか。瞳の色が戻らずとも、いつ光が失われるとも知れない世界に、また光が戻ることが。――けれどそれは、幸せなのだろうか。いっとう恋う誰かへの想いが砕かれる時の痛みとは、見える世界と比してどれだけの価値があるのだろう。まるで悲しい童話のような病が恋の証であるというなら。奪うことは正解なのでしょうか。何を奪うのが許されて、何を奪うのは許されないのでしょうか。辛い選択を迫られるという言葉に、心が浮いて漂って、どことも知れぬ場所へ行ってしまうような気がした。そんなままで学園に帰ったものだから、足取りは行きとは別人のよう。まるで幽霊がいるかのようだと、誰かが言っていたのさえ知らぬまま。けれど耳に入った言葉に、きつく両手を握り締めた。摘み取られた先の未来まで奪われてしまったあのひとに、自分が何を出来るというのだろう。)……大嫌い、こんな世界……(あのひとから、どれだけ奪ったら気が済むのですか。返して。返して。あのひとに光も未来も、早く。だって自分では光を取り戻せない。この箱庭を出た先だって。嗚呼、常春の庭も鎖されようとしている時に。貴女と共に、現し世の春の花をまた見るのが叶わないのが。ひどく、寂しく哀しく思います。) |
Published:2018/12/16 (Sun) 12:03 [ 29 ] |
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